慶應キャンパス新聞会コラム

2005/05/19 15:46


 昨日、今日と駅頭演説の後は原稿書きに徹しています。昨日は、JR西日本の事故に関連して「労使」関係の構造的問題についてのレポートを書きました。今日は、来週からの演説の骨子を練っています。テーマは「家族、家庭」です。資料を集めるためネットサーフィンしていたらなかなか読みごたえある文章に出会いました。「慶應キャンパス新聞会」ホームページのコラムです。ちょうど1年ほど前に書かれたものです。キャンパス新聞というからには筆者は学生だろうか?。もしそうなら、凄いなー。勉強になりました。以下、かなり長文ですが(^_^;)、転載します。

<<2004年05月10日号
雑感 憲法改正と家族
個の前に家庭ありき

 「家族は、社会の基礎として保護されなければならない」
 憲法改正をめぐる議論が本格化する中、読売新聞社は今月三日の憲法記念日にあわせて、憲法改正二〇〇四年試案を発表した。その第二十七条がこの条文である。
 同紙が家族保護の条項を盛り込んだ背景には、「家族の崩壊」への強い危機感がある(「読売新聞」五月四日付)。たしかに、離婚の増加、自殺者の増大、家出・非行や児童虐待の多発など、家族の構成員がバラバラになり、その求心力が低下している現象は枚挙に暇がない。現行憲法二十四条は「個人の尊厳と両性の本質的平等」を掲げているが、戦前の男尊女卑の反動とはいえ、こうした個の強調が家族の崩壊を促してきたことは否めまい。衆議院憲法調査会でも、「家庭の中でも個人の権利が優先され、家や家族を守る意識が低下している。憲法に家庭の規定を設け、国が家庭を尊重し保護する旨定めるべきである」(森岡正宏代議士、同調査会中間報告書)といった意見は多く出された。戦後日本においては、親と子、祖父母と孫、夫と妻・・・それぞれが「自立」することが、家族の解体に直結してしまった。
 では、個の尊厳と家族の尊重は矛盾するものなのだろうか。
 我が国において個の尊重、自立を訴えた代表者は、いうまでもなく福澤諭吉である。福澤は個人の独立が国家の独立の基となるとして、独立自尊の精神を生涯にわたって説き続けた。
 同時に、彼は家庭の重要性も強調している。いわく、「真に人の賢不肖は父母家庭の教育次第なり」。では教育とは何か。「唯に読み書きを教るのみを以て教育とは申し難し。・・・人々が天然自然に稟け得たる能力を発達して人間急務の仕事を仕遂げ得るの力を強くすることなり」。そのためには、「父母の言行」「学校の教授」「世の有様」「世俗の空気」、いずれも重要である。とりわけ、「身の挙動にて教ることは書を読て教るよりも深く心の底に染み込むもの」だけに、父母たるものは「自身の所業は決して等閑にす可らず」(『家庭叢談』)。父母がその言行をもって人格の模範を示してこそ、子供は成長し、自立していくのである。「既に至当の教育を被りて成年に達するときは独立の生計を営む可し」(『福翁百話』)。
 福澤において、個人と家族は矛盾するものではなく、むしろ不可分のものであり、家庭を前提として自立した個人が形成され、自立した国家が維持されると考えられていた。戦後日本の問題は、個人を強調しすぎて家族の崩壊を招いたことより、個人と家族を相対立するものと捉えたところにあったのではないか。戦後民主主義は、国家と市民を対立するものと捉え、国家から権利を守ることが民主主義だと捉えてきた。これと同様、家族と個人が対立し、分離することが個人主義だと捉えられてきたきらいはないか。
 憲法改正によって家族の保護を打ち出すことは重要である。ロシアでは、家族に関する憲法上の規定によって、「『家族』が国家によって保護を受けることを目標として、諸政策に反映されている」(ザドルノフ議員、前掲中間報告書)といわれる。ただ、自立した個の形成が家庭の教育によってはじめてなされるという福澤の主張は、心に留めなければなるまい。離婚、自殺、虐待、非行・・・。これらの現象は、家庭崩壊が個の自立ならぬ崩壊を生んでいるように思えてならないのである>>
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