「敬愛なるベートーヴェン」

2009/06/27 15:14


 今週は水曜日早朝に上京。金曜日午後、ある組織の生きのこりを賭けたプレゼン。その3日間、合計で睡眠時間は5〜6時間、食事も2、3回しか摂りませんでした。ひたすら、プレゼン資料をつくっていました。こういう時、何かが自分に取りついているんじゃないか?と自ら思うことがあります(笑)。思いおこせば、冴えわたる演説ができた時もそうでした。自分ではなく、「何か」が自分を通じて語っているような感覚になることもありました。英国・ハンガリー映画「敬愛なるベートーヴェン」(2006年。アニエスカ・ホランド監督)をレンタルで観ました。

 「第九」の初演を4日後に控えているにもかかわらず合唱パートがいまだ完成していないベートーヴェン(エド・ハリス)。そこへ、作曲家を志す若き女性アンナ(ダイアン・クルーガー)が写譜師として送りこまれます。女性が来たことに激怒するベートーヴェンでしたが彼女の才能をやがて認め写譜の仕事も任せることになります。二人は次第に、心をも通わせることになります。「第九」の演奏シーンは圧巻です。

 「自分(ベートヴェン)の音楽は神の言葉だ」という趣旨のことをこの映画でベートーヴェンは何度も台詞として語ります。一見、傲慢なのですが、実はこの感覚は真の謙虚さと思います。吉田康人にはベートーヴェンのような才能は全くありません。ただ、自分が他人や社会を動かしているという感覚と、自分は動かされている(正確には、動くようにしていただいている(難解))という宗教的な感覚との間には、乗りこえがたい違いがあると思っています。前者、後者それぞれの感覚の持ち主どおしが心底理解しあうのも極めて困難なところがあります。

 宗教観に乏しい現代日本人の決定的な欠陥はそのあたりにも求められます。
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